【記事翻訳】THE MUSICAL インタビュー [COVER STORY] リュ・ジョンハン、韓国ミュージカルの輝かしい歴史 [No.199]<前編>
今年、20周年を迎える韓国の専門誌「ザ・ミュージカル」誌。
カバーストーリーにリュ・ジョンハンさんが登場です。
お手元に雑誌が届いている方もいらっしゃるかと思いますが、スペシャルインタビューがwebにも掲載されました。内容も充実、ボリュームもたっぷりということで前後編に分けて記事翻訳を掲載いたします。
元記事はこちら(20th ANNIVERSARY THE MUSICAL MAGAZINE)になります。貴重な記事の翻訳掲載をご許可くださいました編集部様に、この場を借りて御礼申し上げます。
THE MUSICAL インタビュー [COVER STORY]
リュ・ジョンハン、韓国ミュージカルの輝かしい歴史 [No.199]
文章:ぺ・ギョンヒ、写真:キム・ヒョンソン、styling:イ・ヨンピョ、hair:ジェロム、make-up:チャンデ
2020-05-04
リュ・ジョンハン
韓国ミュージカルの輝かしい歴史
『オペラ座の怪人』『ジキル&ハイド』『ラ・マンチャの男』『スリル・ミー』『スウィニー・トッド』『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』『フランケンシュタイン』、一見すると特別な共通点なしに羅列したかのようなこれらの作品は、国内で非常に愛されたという点で一括りにすることができる。そして、範囲を少し狭めると、初演が全てリュ・ジョンハンであるという驚くべき共通点がある。そう、韓国ミュージカル定番の人気作品の歴史、その始まりにはリュ・ジョンハンがいる。そして、彼の歴史はまだ終わっていない。
ドラマチックなデビューストーリー
───『ドラキュラ』のチケット予約ページにプロデューサーの継続的なラブコールによって、スペシャル公演をすることになったと出ています。今回の公演が限定的な参加となったのには、特別な理由があるんですよね?
2015年に『ジキル&ハイド』地方公演と『ファントム』ソウル公演を並行したことがあります。平日は『ファントム』に出演し、週末に『ジキル&ハイド』をするスタイルでしたが、その時に、今後はこんな風に2本を交互に公演するのは止めようと思いました。韓国の公演業界の特性上、1人の俳優が同時に2つの作品に参加するのは珍しいことではありませんが、率直に言って、それは制作会社や俳優、そして観客、皆にとってよいことではないのではと思いました。今年、私の上半期のスケジュールは『レベッカ』に決まっていたので、実は『ドラキュラ』は計画にはありませんでした。でも、この機会を逃したら、私がこの作品を再びすることがあるだろうかという気がしました。『ドラキュラ』は初演を演じてから、ぜひもう一度やってみたいと思っていたんです。結局2つの作品の日程が重ならないように出演回数を調節することで、出演を決めました。
───今回のインタビューの準備をしていて、あらためて驚いた点は、後に定番の人気作品となる作品の初演に必ずと言ってよいほど出演されている点です。『ジキル&ハイド』(2004)、『ラ・マンチャの男』(2005)、『スリル・ミー』(2007)、『英雄』(2009)、『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』(2010)、等々、成功した作品がとても多く、一つ一つ挙げていくのが大変なほどです。
私は成功するよい作品というものが最初から決まっているとは思いません。観客からどの程度共感を得られるかによって、結果が変わるだけです。ですから、どんな作品でも、観客から共感を得られるように、ディテールにこだわって作り上げることがとても重要だと思います。もちろん、ヒットするには運も無視できません。その点で、私は運がとても良かったし、沢山の恩恵をうけた俳優の一人です。初演の時は、誰にも結果は予測できませんが、自分が参加した多くの作品が長く愛されているということは、本当にありがたいことです。初めて世に出る作品がよい評価を得て、キャスティングと関係なく上演され続けるようになることほど、励みになることはないと思います。
───今までに参加した多くの初演作の中で最も心に深く残る作品を1つ挙げることは可能ですか? 私がこの作品のはじまりに関わったという事実がいつまでも光栄な作品。
これはとても難しい質問ですね。でも、デビュー作の『ウエスト・サイド・ストーリー』が私には一番意味深い作品でしょうね。実は、学生時代はミュージカルには強い興味は持っていませんでした。私が俳優になるとは思いもしなかったです。『ウエスト・サイド・ストーリー』のオーディションも大学の先輩で当時のサムソン映像事業団にいたパク・ヨンホ代表(2人ともソウル大学の声楽科出身)の勧めで受けることになったんですが、私一人だけ、スーツ姿でオーディションを受けたのが思い出されます。その時はまだ、オーディションのような場所には、当然スーツ姿でいくものだと思っていたんです。今思うと、本当に笑えますよね。ミュージカル俳優として活動するにあたって、基盤になってくれた『オペラ座の怪人』や私という俳優の新しい可能性を引き出してくれた『ジキル&ハイド』も大切な作品ですが、『ウエスト・サイド・ストーリー』に出逢わなければ、ずっとミュージカルとは関係のない別の人生を生きていたかもしれません。
───声楽科在学時代はどうでしたか?思い出すエピソードなどがあれば…。
学校に入学した当時は、音楽的な知識があまりない状態でした。3か月くらいかな、レッスンを受けて、声楽科に受かったんです。オペラがどんなものなのかも入学してから知りました。声楽の巨匠たちの公演ビデオを店内でかけていた学校前のカフェが思い出されます。当時はそのような資料映像を簡単に入手できなかったので、親しい同期たちと毎日、そこで長い時間を過ごしました。巨匠たちが歌う映像を何度も見ては「どうしたら、あんな音が出るんだろう。音を後ろに回して出すのかな?」友達と毎日同じような話をしていました。
でも、ある時思ったんです。美しい音それ自体を純粋に楽しまずに、なぜ計算し分析しようとばかりするんだろう。音楽を楽しめない僕が音楽をしてもいいのだろうかと。これは、ミュージカル俳優としても、しばらく自問していた問いでした。とにかく、私の幼い頃からの友人達は、私がこの仕事をしていることをとても不思議がります。人前に出て注目されるのも嫌いで、集団の中にうまく馴染むことも苦手だった子がミュージカルをするとは、本当に不思議だと言われます。
───ミュージカルに話を戻して、ミュージカル界に声楽科出身がまだ珍しかった時代に、デビュー作で主人公を手にしたことについて、よくない見方をされることもあったとか。
正直、『ウエスト・サイド・ストーリー』でデビューした後は、製作者の方々からたくさんのオファーが来ると思っていました。(笑) 当時は、歌が上手い俳優は多くなかったんです。でも、公演が終わった後、私にオファーしてくる人は誰もいませんでした。今考えてみると、演技の勉強をしたこともなく、主人公として舞台に立ったわけですから、未熟な点も多かったですよね。でも、その時は自分が未熟だったと思うよりも“俺のどこがそんなに足りないって言うんだ?”という反抗心が大きかった気がします。おっしゃったように、声楽科出身という理由で、基本がないままにタイトルロールを任されたという厳しい視線も多かったです。意地もあって、演技を習うつもりで大先輩方がやっている正劇(せりふ劇)に参加しましたが、3作品連続で無理な挑戦をして、逆にこれは私の道ではないという思いが大きくなりました。実際、プロデューサーの勉強をしようとアメリカ留学の準備をしたんですよ。そうするうちに、『オペラ座の怪人』とドラマチックに出逢いました。
───『オペラ座の怪人』の韓国語での初演を見ることができず残念ですが、貴族の青年ラウルは誰が見ても30代のリュ・ジョンハンにピッタリの配役だったことでしょう。ですが、ご本人はラウルというオーディション結果を受け入れるのに時間がかかったとか。
留学のため、アメリカ行きの飛行機に乗る前日か前々日、大きな期待もせず、1次の公開オーディションを受けました。すると、数日後、2次オーディションの連絡をニューヨークで受け取ったんです。当時『オペラ座の怪人』のオーディションは、とても長期にわたって進められていました。実は私が狙っていたのは“怪人”だったので、最初はラウルの話を聞いた時に、やらないと言いました。一体どんな度胸でそんなこと言ったのか…(笑)その後、追加のコールバックでもラウルの提案があったので、何度も“それなら、やりません”と断りましたが、当時、韓国公演の演出を任されていた演出家から言われました。怪人役は40代以降もいくらでもできるが、ラウルは今、君の年齢でしかできないし、若いうちにラウルを演じ、後に怪人を演じる俳優はいても、その反対はないと。その言葉に負けたふりをして、留学生活を整理し、韓国に戻ってきたのが、私の新しいスタートとなりました。
───『オペラ座の怪人』韓国語の初演は韓国ミュージカルの歴史において、成功的な事例として挙げられますよね。当時、この作品を通じて、ミュージカル俳優としての自信が少しついたのでしょうか。
当時はまだ自信は無かったと思います。でも、ステージに立つのが楽しいということが分かりました。オーディションで俳優を選抜したので、チームにスター俳優と言えるような人がいなかったにも関わらず、毎公演、客席が観客でいっぱいだったんです。「『オペラ座の怪人』を韓国でやるんだって。当然見に行かなきゃ」と、公演を見に来る観客の雰囲気がとても良かったです。どれくらい楽しかったかと言うと、一人で演じていたので、7か月以上も毎日舞台に立ったのに、辛くなかったほどでした。私だけでなく、全ての俳優がこの作品に参加しているという強い自負心がありました。誰かに近況を聞かれれば、二言で答えました。「俺?『オペラ座の怪人』」。作品に対する私たちのプライドがどの程度だったのか分かるでしょう?(笑) 当時はその後の未来を考えるような余裕はなく、『オペラ座の怪人』という作品の垣根の中に自分がいられることが、ただただ幸せでした。
───『オペラ座の怪人』はあまりにも世界的な作品なので、ある程度はヒットが予想できたでしょうが、『ジキル&ハイド』は開幕前、ヒットを予想できなかったのではないですか。リュ・ジョンハンという俳優にとっても、強烈な役柄が大きな挑戦だったことと思います。
俳優は韓国にまだ入ってきていない作品も一生懸命探して見るじゃないですか?『ジキル&ハイド』は資料を見た俳優が皆、面白いと言った作品です。2004年の初演当時は、殺人鬼を主人公に善悪を扱う暗いミュージカルは珍しかったですが、一人の俳優が全く違う性格の役を一人二役で演じるという強烈なパフォーマンスが魅力的でしたから、私は当然、ヒットすると思いました。実際、初日の公演からすごい反応を頂きました。緊張したせいか、集中したせいか、初日の公演をどう演じたのか、全く覚えていませんが、カーテンコールの時に経験した特別な雰囲気は生涯忘れることはないでしょう。
───どんな点から、特別だと感じたんでしょうか。
カーテンコールでステージに登場する時、劇場内の空気が全く違うと感じました。まるで客席の一番奥から何かがグワッと押し寄せてくる感じ? 音響監督から「鳥肌が立つほど興奮したカーテンコールは、あの時が初めてだ」と言われました。全ての俳優とスタッフ達がそう感じました。後輩たちもそれに似た感情を経験するだろうか、そんな舞台が多ければいいのにと、よくそう思います。
心に従った道
───過去20年間、一貫してミュージカル界の中心にいたので、誰よりも作品選びにおいて有利だったと思います。オファーも多かったでしょうし、選択の幅も広かったでしょうから。でも、選択肢が多いからと言って、成功率が自動的に高くなるわけではないですよね。可能性のある作品を選ぶのは、結局俳優自身です。2000年代の中、後半に『スリル・ミー』や『スウィニー・トッド』『EVILDEAD』のような実験的な作品を早々に見抜いているのをみると、本能的な天性の才能ではないかと思います。
どんな作品を選ぶとしても、台本を読んだ時に心惹かれるものでなければならない気がします。全ての俳優がそうだと思います。もちろん、作品以外の理由で出演する場合もありますが、まずは、自分がやりたい作品かどうかが最も重要だと思います。今お話しされた作品はどれも、他のことは全て抜きにして、台本が本当に面白かったんです。特別な意図や目標を持って選んだわけではありません。『スリル・ミー』初演時を思い出しますが、当時、社会の雰囲気が今とはとても違っていて、同性愛を素材にした作品が観客に受け入れられるだろうかという心配の声もありました。でも、私はこの作品が心から上手くいくと思いました。なぜなら、“人が人に対してどんな感情を持つのか”は性別によって変わる問題ではありませんよね。そして、主人公2人の心理戦はとても興味深かったですしね。
───個人的には、2014年『フランケンシュタイン』の初演で傲慢な若い科学者ビクターとみすぼらしい闘技場の主人ジャック、一人二役をされたのが、とても驚きました。
『フランケンシュタイン』の場合も台本に面白い要素がたくさんありました。そこに私がほんの少しアイディアを出しました。元々の設定は、ビクターとジャックは別の俳優が演じる予定でした。キャラクターの設定上、重要な配役の出演陣が全て一人二役を演じることになっていたのですが、ビクター役の俳優だけ、1つのキャラクターを演じるのは残念な気がしました。正反対の性格を持つ、ビクターとジャックを交互に演じたら、より面白さが増すと思ったんです。幸運にも、演出家のワン・ヨンボムさんもいいアイディアだと、私の提案を受け入れてくれました。
───アイディアという表現は合わないかもしれませんが、2007年の『スウィニー・トッド』初演では、冷血な殺人鬼のキャラクターを冷ややかに表現して、様々な反応を得ることもありました。ミュージカル俳優として参加した初ソンドハイムの作品でしたが、どんな思い出がありますか。
ソンドハイムは個人的に好きな作曲家ですが、『スウィニー・トッド』があんなに早く韓国に入ってくるとは思いませんでした。楽しいお話でもないし、音楽もやはり簡単ではありませんでした。よく言われる中毒性のある強いメロディーとは距離があります。事実、私も最初はソンドハイムの音楽を難しく感じました。でも、『スウィニー・トッド』をやってみて、彼ほど、俳優にとって親切な作曲家はいないと思いました。
ソンドハイムはキャラクターが劇中の状況で感じる感情を楽譜にのせるんです。だから、歌う時に、まるでセリフを詠んでいるようで、キャラクターが感じる感情からかけ離れたメロディーに合わせて歌を歌うことがないんです。とにかく、ミュージカルの観客層が今ほど厚くなかった当時、韓国の市場で『スウィニー・トッド』がヒットすることは、むしろ、おかしいと感じるような作品でした。どの制作会社でも、快く上演する気にならなかったのですが、結局、パク・ヨンホ代表(当時ミュージカルヘブン代表)が制作に着手しました。本当に勇気がある方です。再び上演するまでに9年近くかかりましたが、オーディーカンパニーで、新たに制作されると聞いた時は、本当に嬉しかったです。すごく愛している作品が再び上演されるということは、それだけで、本当に嬉しいことですから。
───作品に対する名残惜しさもあるかと思いますが、出来なくて心に残っている作品はありますか?
はい。とても多いですよ。『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンやジャベールのような役はとてもカッコいいですよね。『ミス・サイゴン』のエンジニアもカッコいいです。そして、何よりも『オペラ座の怪人』、今でもやりたいです。怪人は本当にカッコいいキャラクターじゃないですか。余談ですが、2009年のライセンス再演の時、オーディションの提案を頂いたことがあります。その時はオーディションを受ければ、怪人を演じられる可能性が少しはあったんです。でも、同じような時期にアン・ジュングンの物語『英雄』の初演が予定されていて、悩んだ末にオーディションの提案を辞退しました。私自身もアン・ジュングンという人物に対して、もっと知りたかったし、彼についてもっと多くの人々に知ってもらえるように、何かしなければならないという使命感もありました。『オペラ座の怪人』に対する名残惜しさはありましたが、ある時から、出演への欲を出すよりもよい思い出として残しておきたいと思うようになりました。ミュージカルを始めた当時、これは必ずやりたいという思いで見ていた初恋のような作品たちは、その気持ちをそのまま大切にしたいとでも言いますか…、観客としてその作品を応援したいです。
───では、俳優として後悔することもありますか? 時が経って、“あの時は、なぜあんなことしたんだろう、しなければよかった”と思うようなことですね。(笑)
もちろん、とても多いです。(笑) 昔はとても重要だと考えていたことが、年を重ねて振り返ってみると、そんなに重要でもなかったなと思う、そんな瞬間がとても多いです。気にせずにやり過ごしてもいい事だったのに、あの時はなぜそんなに拘っていたんだろうと、自分自身にがっかりします。以前、ある方が大家とは“外柔内柔”の品性を持ち合わせているとお話してくださったことがあります。実はこれは、以前、インタビューでよく言っていた話なんですが、他人に対して寛容でありながら、自分自身にも寛大でなければ、真の大家とはいえないということです。でも、私は、幼い頃は“外剛内剛”に近かったんです。他人にも厳しく、自分にも厳しかった。自分自身から距離を置いてみるという言葉には、いくつか意味がありますが、今は、自分の仕事に集中するという理由で人に気まずい思いをさせたくないです。振り返ってみると、以前は名分なく気まずい思いをさせたことが多かった気がします。もちろん、今でもそんな時もあると思いますが。でも、今は、もう一度考えてみるんです。果たして、これは、私がエネルギーを注ぐことなのだろうか? これは時間が経っても気にすることなのか? 少し立ち止まって考えてみると、やり過ごせる事の場合が多いですね。
編集部の許可をいただいて翻訳記事を掲載しております。
元記事はこちら20th ANNIVERSARY THE MUSICAL
翻訳:リュ・ジョンハンプロジェクト事務局